かい歯科 院内新聞8月号

かい歯科 院内新聞8月号

今日は心に残った患者さんとのエピソードの1つを書こうと思います。
その方は物静かな上品な方でいつも窓辺の席で外の景色を微笑むように見ながらお待ちになってらっしゃいました。足が少し悪いのか歩かれる時は、いつもゆっくりで、少し片方の足が曲がってらっしゃいました。ある時、何気なく「足どうしたのですか?」と聞くとゆっくりとすごく深くて一生忘れられない返事が返ってきました。ひざの病気でO脚にでもなられているのかなあと思っていた私には衝撃でした。患者さんはゆっくりとやさしい声で話しはじめられました。
「私の足はね、若い時に足を骨折して曲がったのよ。今でいうと14歳だったから中学生の頃ね。看護の勉強をしていたのだけど戦争で学生もお手伝いをしなくてはいけなくなったから、私は広島の日赤に行ってお手伝いをしていたの。あの日も暑くて中庭で兵隊さん達が点呼をしておいでだった。私は病室から廊下に出た時にピカッて光がしたかと思ったら、すごい爆風でドアごと吹き飛ばされて建物の下敷きになって気付いたら寝かされていたの。沢山の人がケガをして寝かされていたんだけど、兵隊さんが看護婦さん水をくれ看護婦さん水をくれって、何度もお呼びになっておられる。でも看護婦さんも少なくて、けが人がたくさんいるから、なかなか兵隊さんの所にいけなかったのよ。私も何かお手伝いしないといけないと思って、歩いて兵隊さんの所へ水をもっていったのよ。足が折れているから動いたらダメと言われていたのに歩いたのが悪かったのよ。ただじっとしとけと言われてもたくさんの人が苦しんでいて、自分は看護婦なのに何もせずにはいられなかったのよ。水を持っていった兵隊さんは、おいしそうに水をゴクゴクおのみになられてね。そして、すーっとおやすみになられて、その後は私も足が痛くて歩けなくなったからわからないけど、多分亡くなられたと思う・・・。
友だちもケガをして横にならんでいたのだけど、友達は傷にウジがわいて、ウジをとってもらう時は”痛い痛い”って言っていたわ。私は幸運な事にウジがわかなくって傷もきれいに治ってよかったねって言われたのよ。病院には次から次にケガした人達が市中から運ばれて来ていたんだけど、ケガした人以外にも他から手伝いにきた人達も1週間位すると、”何かきつい”って夕方から言われたかと思うと体中から血が出て、翌日には亡くなられていた。病院の裏には死体が山積みになって、埋めこなせない程で死体の腐った臭いが凄かった。市中の話を聞いたら電車も丸ごと焼けて、車掌さんもお客さんも電車も全部そのまま焼けて大変なことになっとる。・・・それで、足は曲がったまま治ったのよ。」
私は、中学生の時に修学旅行で行った広島の事を思い出していました。そして、私が14歳だった時に、はたして自分がケガをしているのに人の役に立とうと動けるだろうかと考えました。自分が痛くて苦しいときに人の役に立とうとするなんて、この方はなんてすごいんだろうと思いました。その気持ちを伝えたらその方は「みんなそうだったのよ。」とさらりとおっっしゃいました。昔の日本人て、戦争を始めたのは許せない事ですが、ふつうの人はえらい人ばっかりだわとつくづく思いました。結局この方は看護師にはなれませんでした。多分この広島での出来事が14歳の女の子にはあまりにも大きすぎることだったのだと思います。何の罪も無い善良な人を不幸にしてしまうのが戦争なんだろうなと思います。
この平和が続きますように。そして戦争で不幸になる人が世界中からいなくなりますように。

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